小鳥遊ホシノと初めての布教

小鳥遊ホシノと初めての布教


目次 


バーナーで炙られ、赤くなった試験管を見つめてホシノはつぶやく。

 

「……やっぱり、これもダメか」

 

試験管の中にあるのは、トリニティでかき集めてきた砂だ。

想像通りではあったが、やはり熱しても冷やしても変わらず、ただの砂でしかない。

熱することで砂糖になる、という奇怪な性質はアビドスの砂だけらしい。

 

「……くそっ!」

 

思わず手に力が入り、試験管がバキリと音を立てて砕ける。

『ああ、壊しちゃった。また買いなおさなきゃ』と手元の砂まみれのガラス片をぼんやりと見つめる。

 

「……う、イライラする……」

 

思い通りにならない結果に、いら立ちが加速する。

ただの糖分の不足ではない。

『砂漠の砂糖』の摂取を止めることで起きた弊害だった。

 

始めは微かな味覚の鈍磨だった。

通常の甘味がいつもより味が薄くなるだけだった。

だがこの時はこういうこともあるか、と楽観視していた。

『砂漠の砂糖』という強烈な甘味を感じれば、他の甘味が薄く感じるだろうと。

だがその味覚の変調は一時的なものではなく、時間が経っても変わらなかった。

それどころか他の味覚にも影響を及ぼし始めていた。

徐々に、徐々に、音もなく忍び寄るように。

これはさすがにおかしい、とホシノは一度砂糖を断った。

だがそこで初めて、ホシノはこの『砂糖』の恐ろしい欠点に気付いた。

 

――イライラする。

 

一定時間服用しなければ、とたんに怒りっぽくなり、攻撃的な性格になってしまう。

『砂糖』を摂取しようと体が求めていることに気が付いた。

 

「あーきつい……まだここまでかな」

 

ホシノは懐から飴玉を取り出し口に放り投げる。

薄い味だ。

その自作の飴は、ほとんど市販の砂糖を使用していて、『砂糖』の含有量はごく微量だった。

最初に全て『砂漠の砂糖』で構成していたときと比べると雲泥の差だ。

一攫千金を夢見て研究しているのに、出費ばかり多くて嫌になる。

 

今完全に『砂糖』を中断することは出来ない。

完全に断つことはできるだろうが、それをした時にもしホシノが暴れたら止められる人間がいない。

怒りに支配されてしまうことがあれば、ホシノの力では人を殺してしまうかもしれないからだ。

だからこうして含有量を減らし、漸減しながらその状態に体を慣らしていく。

結果として、多少イライラする程度で収まっているのが現状だった。

 

「うへぇ……ようし、行くか~」

 

口から甘いため息を吐きながら、鏡を見る。

鋭くなる目つきをマッサージして、目じりを落としいつものホシノに戻る。

今日もフィールドワークだ。

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

いつもの恰好でアビドスを出ると、そこには見覚えのある少女の姿があった。

 

「……こんばんは、ホシノさん」

 

「やあハナコちゃん。こんばんは~」

 

浦和ハナコ。

先日何の因果か、ちょっとした出会いをした少女だ。

不良に絡まれていたので助けて、家出だったから気が済むまで散歩に付き合っただけだ。

大したことはしていないはずなのだが、何かが彼女の琴線に触れたのか、何故かなつかれてしまった。

会話の流れで連絡先を交換し、こうして今日もついてきている。

無視した場合、また一人で夜の街を歩き回って事件に巻き込まれる可能性もある。

気まぐれとはいえ一度助けた以上、ホシノとしては見捨てるような寝覚めの悪いこともしたくない。

各地の砂を集めるフィールドワークなら一人で十分だが、ハナコのストレス発散にもなるだろうと同道を許していた。

 

「見てくださいこれ。今日はちゃんと銃持ってきましたよ」

 

「へぇ、アサルトライフルか。いいじゃん」

 

ハナコの腰には先日にはなかった銃がきちんとあった。

服装もトリニティの制服ではなく私服なので、さすがに学んだらしい。

トリニティ外のここまで一人で来ているのも、銃で牽制できたからだろう。

 

「見ててくださいね」

 

ハナコはアサルトライフルを構え、誰もいない廃墟に向かってタタン、タタンと何度か銃を撃った。

 

「……どうですか?」

 

「う~ん……ちょっといい?」

 

期待を込めてホシノを見るハナコだったが、ホシノの顔は渋い。

おもむろにハナコに近づくと、腰元に手を伸ばした。

 

「ひゃんっ! ちょ、ホシノさ、何を、え、エッチなのはダメぇ……」

 

「重心が高い、体幹が安定していない、腕の筋肉が弱くて撃つたびに銃口が跳ねて照準がバラバラ。連射でばら撒くだけならいいけど、これじゃ上手く当たらないよ……なにか言った?」

 

「……あ、はい。なんでもないです。重心ですね」

 

ホシノのアドバイスに、スン、と気持ちを落として体勢を変えるハナコ。

確かに銃を撃つ経験などあまりなかったが、ホシノからすれば問題点だらけだったらしい。

 

「そう、もっと脇を閉めて、体で覚えるんだよ」

 

「……はい♡ カラダで覚えます♡」

 

耳元で囁かれる声に、ぞわぞわと心が沸き立つ。

ホシノの甘い吐息にクラクラしてしまいそうなハナコだった。

 

「撃って」

 

「――っ!」

 

ホシノの合図に合わせて引き金を引く。

転がっていた空き缶に向けて放たれた弾丸は、過たず命中した。

 

「あ、当たった。当たりました!」

 

「うん、こんなもんかな」

 

命中してはしゃぐハナコに、ホシノも満足げに頷いた。

 

「トリニティにも射撃訓練場はあるだろうし、定期的に練習しておきなよ~」

 

「はーい、ホシノせんせぇ」

 

「はい、は伸ばさないの~」

 

「はい♡ うふふふ」

 

「えへへ~」

 

子供がやるお決まりのセリフにお約束で返し、こみ上げてくる笑いにどちらからともなく噴き出す。

出会いは偶然ではあったが、打てば響く感じが中々相性が良いのではないかとホシノは思った。

 

「それでホシノさん、今日はどこに行きますか? トリニティはもうだいぶ回ったと思いますけど」

 

「トリニティはしばらくいいかな、今日はゲヘナの方に足を延ばすつもり」

 

「ゲヘナ、ですか」

 

「やっぱり苦手? ゲヘナとトリニティの確執は有名だもんね」

 

「はい……個人的にはどうでもいいんですけど、トリニティだからって目をつけられたりするのはちょっと……この間のスケバンたちも元ゲヘナみたいでしたし」

 

「まあまあ、今日は絡まれるような恰好もしてないし、堂々としてれば問題ないよ。それにおじさんがいるからね、ゲヘナの不良くらいなら大丈夫だよ~。風紀委員とかが組織立って来たらちょっと厳しいけどねぇ」

 

「それはこの間、目で見たので信頼しています」

 

先日の夜の散歩で、ホシノはその身体能力をいかんなく発揮している。

途中からカズサという横やりが入ったものの、スケバン相手に大立ち回りしていたのだ。

それにゲヘナの風紀委員といえば、トリニティ正義実現委員会と双璧をなすと言われる武力集団だ。

それを相手にして『ちょっと厳しい』で済むあたり、ホシノの規格外さがよく分かる。

 

「そんじゃ、しゅっぱ~つ!」

 

ホシノの言葉に促され、二人はゲヘナへと足を踏み入れた。

 

 

ゲヘナの街は夜も明るい。

深夜になっても店は多く開いており、繁華街といってふさわしい騒がしさだ。

門限など無いのか、制服姿でうろつく学生の姿があちらこちらに見受けられる。

絡まれるかも、と想像していたハナコだったが、ホシノの言う通り普通に歩けていた。

 

「こんばんは、良い夜だねぇ。それ、見たことないけど新型?」

 

「やあやあこんばんは。見ての通りさ。最近出たミレニアムの新型ドリルなんだが、材質は申し分ないが回転力がイマイチでね、リミッターを破壊して威力を上げているのさ」

 

「中々かっこいいねぇ。ロマンがあると思うよ~」

 

「ほう? 君は理解してくれるか。うむ、やはりロマンを追い求めてこその人生だな。これで温泉開発も捗るというものだ。ハーッハッハッハ!」

 

当のホシノはというと、見知らぬ相手であろうとすれ違いざまに挨拶、軽く雑談する程度には馴染んでいた。

ドリルをギュルギュル回して高笑いしている少女に、手を振って別れたあとホシノは言った。

 

「こういうのは場慣れしておくのが一番だねぇ。それに先んじて挨拶されたら、反射的に挨拶し返してくれることも多いんだ~。そうなると襲ったりする気分じゃなくなったりする。笑顔で挨拶した相手に容赦なく銃を向けられるのは、実のところそんなに多くないんだよ~」

 

「なるほど、勉強になります」

 

ホシノの後をついて行きながら、教科書に載ることのないホシノの蘊蓄を聞く。

教科書やBDではゲヘナの歩き方など教わるはずもなく、初めて見聞きすることばかりだ。

無意識に英才教育を受けつつあるハナコだった。

 

「じゃあ私も……こんばんは!」

 

「ひぃっ!? ご、ごめんなさい!」

 

「えっ?」

 

近くを歩いていた少女に、ホシノを真似してハナコが声を掛けた。

すると返ってきたのは挨拶ではなく、少女の謝罪だった。

確かに自分よりも小柄だったが、そんなに威圧感が強かっただろうか? とハナコは首を傾げる。

踵を返して走り去る少女に、あちゃー、とホシノは頭に手をやる。

 

「タイミング悪かったねぇ」

 

「あの、何かおかしかったでしょうか?」

 

「いや、やり方は間違ってない。でも相手が悪かったね。気弱な子みたいだったから、急に話しかけられてびっくりしちゃったんじゃないかな~?」

 

「……次からは気を付けます」

 

「こんな夜にあんな子が出歩いていること自体、珍しいんだけどねぇ」

 

夜ともなれば気性が荒い者がうろついていることも多い。

抵抗手段がない者や逃げ切る実力が無い者は、大人しく家の中にいることが鉄則だ。

そんな場所を――見たところ中学生の――気弱な少女が歩いている。

 

「う~ん?」

 

何か引っかかるな、とホシノは首を傾げた。

あの少女は初めて見るが、どこかで見覚えがあると感じたのだ。

だがとうに走り去ってしまった以上、今から追いかけることもできない。

違和感を感じたまま、当初の目的である砂の回収に向かうのだった。

 

 

ゲヘナの各地で砂を採取したあと、また繁華街まで戻ってきた二人。

何かを見つけてハナコが声を上げる。

 

「あれ、あの子……」

 

「どうしたの、ハナコちゃん?」

 

「さっきの子です」

 

ハナコの指さす先には、先ほどハナコが声を掛けて逃げ出した少女がいた。

あれから数時間は経っているというのに、まだ周辺をうろついていたのか、とハナコは驚く。

先程は持っていなかった荷物を両手に抱えて、周囲の視線を警戒しながらこそこそと歩いている。

 

「……追うよ、ハナコちゃん」

 

「ええっ?」

 

少女の姿を見て顔色を変えると、ホシノは走り出した。

急に動いたホシノに戸惑いながらも、こんな場所に一人残されては叶わぬとハナコも掛けだした。

瞬く間に追いつき、ホシノは少女の前に回り込む。

 

「やあこんばんは~、さっきもすれ違ったんだけど、おじさんのこと分かるかな?」

 

「ヒッ、な、なんですかあなた……私に何の用ですか!?」

 

急に声を掛けられて、少女は恐怖に慄く。

身長という差ではホシノと少女では10cm以上差があるが、小さいホシノに威圧される。

 

「お、お金なら無いですよ」

 

「お金じゃなくてさ、さっき君の持ってる袋から中身が少し見えてねぇ。少しお節介しようかと」

 

「か、関係ないじゃないですか。いい加減なこと言って、カツアゲするつもりでしょ!?」

 

ホシノの言葉に荷物を抱え込むように背を丸め、少女は愛用のショットガンを構える。

 

「お、ショットガン使ってるんだ~。おじさんと同じだね」

 

「何変なこと言ってるんですか、う、撃ちますよ!」

 

「へぇ、そのセーフティのかかったままの銃で?」

 

「えっ?」

 

ホシノの指摘に、少女の目が愛銃へと向けられる。

セーフティは外れている。

だがその一瞬で近づいたホシノによって隙間に指を入れられ、トリガーが引けなくなった。

少女の片手を払い、落ちた荷物を蹴り飛ばす。

その勢いで中身がこぼれ出た。

 

「ハナコちゃん、それ拾ってくれる?」

 

「はい」

 

追いついたハナコにホシノが頼むと、ハナコは荷物を検めた。

 

「これは……剃刀にロープ、練炭にガムテープでしょうか?」

 

「リストカットに首吊り、あとは一酸化炭素中毒か。典型的な自殺セットだねぇ」

 

キヴォトス人は頑丈だ。

銃弾を受けても痛いで済むが、それでも死なないわけではない。

出血多量や呼吸機能が阻害されれば、あっけなく死ぬ。

死ねそうなものを片端から試して、どれか当たればいいと思ったのだろう。

 

「まずはお話、しようか?」

 

問いただすようなホシノの言葉に、抵抗する気力もなくしたのか、少女は小さく頷いた。

 

 

少女が自殺しようとしていた理由は、いじめだった。

キヴォトスの中でも外でも変わらない、どこにでもあって、それでいて決して軽く見ることができないものだった。

 

「私はどんくさくて、人よりも上手にできなくて、いじめられても仕方ないんです。人が多い場所は苦手だし、目を見てちゃんと話せないし、雑草を育てるのが趣味って言ったら馬鹿にされるし……ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。ダメな子でごめんなさい。お金を持ってなくてごめんなさい。こんな私は死んだ方が良いって、そうだそうしよう死んだ方が世界が良くなるって思って。でもどうしたらちゃんと死ねるのか分からなくて色々買って試そうって」

 

「……重症だぁ~!」

 

少女から聞き出した情報は、ホシノのキャパシティを超えるものだった。

少女も焦点がうつろだし、話はあちらこちらに飛びまくるし、自己肯定感というものが欠片も見えない。

 

「ハナコちゃん、カウンセリングってできる?」

 

「さすがにそっちの方は……救護騎士団にいけばマニュアルくらいは見つかるかもしれませんけど」

 

「だよねぇ、おじさんもお手上げだ」

 

ホシノもハナコもカウンセリングの技術は持っていない。

そもそも少女は既に自殺の秒読み段階であり、カウンセリングで悩みを聞いてどうにかなる段階はとっくに過ぎていた。

少女が人知れず死ぬ前に見つけられただけでも僥倖というものだった。

 

(やっぱり、死の匂いだったか……)

 

未だ謝り続ける少女を見て、ホシノが眉を顰める。

そもそも自殺道具が見えた、というのは嘘だったのだ。

ホシノが気付いたのは、少女の今にも消えそうな儚げな気配、あるいは生きる気力を無くしたような、在りし日の自分に似た顔。

前者は砂漠の海に消えた。後者はこうして生き恥をさらしている。

砂糖は味覚を鈍らせたが、それ以外の一部の感覚を鋭敏にさせた。

ホシノはそれを死に対する匂い、あるいは直感が働いたと解釈していた。

 

「ホシノさん、どう、しましょう……?」

 

「……」

 

ハナコが不安げにホシノを見る。

だがホシノにも明確な答えは無い。

いじめを止める、というのなら手はある。

いじめをしている者たちに、少女のバックには自分がいると喧伝すればよい。

暴力に訴えるのは得意だ。

だがそれではせいぜい一時しのぎにしかならず、ホシノが常に傍にいることはできない。

 

(どうする? どうすればいい?)

 

ホシノの頭が回転するが、全てを解決できる案など都合よく浮かばない。

そんなホシノの脳内で、一つの声が囁く。

 

【簡単なことだよ、ホシノちゃん。砂糖を食べてもらうんだ。それで大丈夫】

 

「それ、は……」

 

しかしそれは天啓か、あるいは悪魔の囁きに近しいものだった。

一度気付いてしまえば、無視したいのに無視できない、へばりつくような引力を放っていた。

 

【この子がこんなことになっているのは、自分を認められないから。自分を認められないのは、幸せが足りないからだよ。いじめなんてする方が悪いのに、自分が悪いからいじめられるなんて思考の悪循環に陥っているの】

 

その通りだ。

しかしそれを今の少女に言ったところで、だからどうした、と反発されるだけだ。

幼少期からいじめを受け続けてきた少女が負った心の傷は深い。

彼女が他人の言葉を聞き入れるだけの余裕は、どこにもなかった。

少女自身がいじめを跳ねのける、あるいは前を向けるようになれなければ元の木阿弥だろう。

 

【だからこの子が一歩踏み出すためには、幸せを経験しないといけないんだよ。ホシノちゃんの手には、その手段がもうあるじゃない?】

 

「でも、でもこれは広めたりしたらダメで……」

 

【それともホシノちゃんはこのまま何もせずに見捨てて帰る? 明日の朝には冷たくなったこの子のことが新聞に載るだろうね】

 

「……やめて」

 

【砂糖に頼らないなら、ホシノちゃんはずっとこの子の傍にいてあげられる? 自殺しないように監禁でもする? 人は洗面器に張った少しの水だけでも溺死できるんだよ? もしそれで死なずにすんだからといって、本当に生きていると言えるの?】

 

「……やめ」

 

【その子にかかりっきりになるなら、ホシノちゃんには他に何もできない。借金を返すために働きに出ることも出来なくなる。私を見捨てて殺したように、今度はアビドスを切り捨てるの?】

 

「~~~~~~っ!!」

 

「あの、ホシノさん?」

 

隣で百面相をするホシノに、ハナコが声を掛ける。

その声にろくな返事もできないまま、ホシノは懐から飴玉を取り出した。

貼り付けたような笑みを浮かべて、少女に近づく。

 

「ねえ君、よかったらこれ、食べてくれないかな?」

 

「な、何ですかそれ、い、嫌です。絶対に変な奴ですよね。おはぎに針が入ってたみたいに、また私を見て嗤いたいんでしょう!」

 

悲鳴を上げる少女に、ホシノの笑顔にヒビが入る。

少女は、他人から渡された食べ物にすら信用できるものが無くなっていたのだ。

だが差し出す手は引っ込めない。

もう、覚悟を決めてしまったからだ。

 

「ごめんね、君は悪くない。おじさんが悪いんだ」

 

「へっ? むぐっ! や、やめ――っ!?!?!?!」

 

万力のような強い力で、少女の口をこじ開けて飴玉を投入する。

ホシノにとっては純度の低い飴玉だが、その初めての感覚に少女の目が見開かれた。

 

「な、なにこれ……あ、あはははははは! すごい、世界がこんなにも綺麗!」

 

「そう、良かったねぇ」

 

抵抗する気を無くし、カラカラと笑う少女の頭を撫でてホシノは尋ねる。

 

「ねえ、名前を教えてよ」

 

「あははははは、ハルカ……伊草ハルカ、です……」

 

「そう、ハルカちゃん。良い名前だね。おじさんはねぇ、小鳥遊ホシノって言うんだ~」

 

ハイになっている少女ことハルカに、ホシノも自身の名を告げる。

 

「ねえハルカちゃん。おじさんには、生きていたらいいことあるよ、って月並みなセリフしか言えないんだ~。ハルカちゃんの苦しみとか分からないし、分かったような口も利かれたくないだろうしねぇ。それでもさ、これから先良い出会いがあって生きていて良かった、って思って欲しいのは、おじさんの傲慢」

 

全てを救えるほどホシノの手は大きくなく、その天秤の片方にはアビドスが既に載っていた。

だからホシノはハルカを救えない。

できることと言ったら、こうして砂糖を与えて、死のうと思う気持ちを少し逸らすだけだった。

 

「ハルカちゃん、足りなくなったイライラすると思うから、追加で砂糖も多めにあげる。それでも砂糖が切れたら、君は苦しむことになる。でもそれは君のせいじゃない、全部おじさんが悪い。だからね、君はおじさんを恨んでいいし、憎んでいい。それでも元気になるくらいに動けるようになったら……」

 

ハルカの頭を抱え込むようにして、ホシノは囁く。

傍にいるハナコにさえ聞こえないほどに小さく、それでいて確かにハルカに分かるように。

 

「その時は、私を殺しにおいで」

 

「……はい……ありがと、ございます」

 

砂糖でトリップしているハルカは、ホシノの言葉を理解していないのかもしれない。

それでも、ハルカはイエスと答えた。

 

願わくば、その憎悪が彼女の生きる薪となることを祈って。

 

 

「……」

 

「……ごめんね、今は何も言わないでくれると嬉しい」

 

あれはなんだ、と咎めるようなハナコの視線に、ホシノは目を逸らす。

ハナコの目を見て答えることはできなかった。

ハルカは感謝していた。

こんなおいしいものをありがとう、幸せな気分にしてくれてありがとう、と。

そのお礼に、まともに返事を返せないまま、ホシノたちはハルカと別れた。

 

ハナコを引き連れての帰り道、ふと顔を上げると、廃墟のガラスに光が反射してホシノの顔が写り込む。

いつもと同じ、自分の顔だ。

だがその顔があまりにもおぞましく、耐え難いほどに腹が立ったので、ホシノはガラスを叩き割った。

 

未だ残っている飴玉を複数取り出し、ホシノは口に放り込む。

ガリガリと音を立てて消えていくものの、先ほどのハルカのように幸福感は得られず、ホシノの気持ちは上がることなく地の底を這っていた。

これでよかったのだろうか、と苦い思いをするホシノ。

けれど仕方のないことなのだ。

ホシノは生徒たちの全ての悩みを解決できる『先生』ではないのだから。

 

―――――――――――――――――――――――――――—―――――――――――――――

 

 

後日

 

「あ、あの時のお姉さん……この間はありがとうございました! お姉さんの言った通りでした。あの後とっても素敵な人と出会えて……私、生きてて良かったって思えるんです。この後の人生は全てアル様に捧げます。そのために私、ゲヘナ学園に行こうと思ってて……え、お砂糖ですか? 最初は欲しかったんですけど、アル様が止めろって言ったので全部捨てました。あんなものゴミです。もうどうでもいいです!」

 

「え、ええ……? うそぉ……」

 

【ええ~!? どういうこと? そんなはずは……】

 

顔を上げて話すハルカの断言する言葉には嘘がなく、憎しみの色も含まれていなかった。

ホシノだけでなく耳に響くユメの声もまた、その様子に困惑を隠し切れないのだった。

 

 

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